シルクロードの旅―9


10月4日(木)パムッカレ〜エフェソス


AM7:00、起床。テリーがヘッドランプを点灯させて何かを探している。私が「部屋の電気を点けても良いよ」と言うと、部屋の電気を点けて探し始めた。そして、私のバスタオルを指さして「これは君のバスタオルか?」と聞くので「そうだ、私のだよ」と答えた。


テリーは更に暫く探したあげくに、バスタオルを既に自分の腰に巻き付けている事に気が付いた!お互い、年は取りたくないものだ。外ではバルーンが何基も揚がっているが、朝靄のせいで写真の写りは良くなさそうだ。

早朝のバルーン(パムッカレ)


AM8:00、朝食。トースト、シリアル、スイカ。スイカの半分を12等分する仕事は、私に任せられた。私はいつものように、なるべく大きさが揃うように気を入れて切った。まずまずの出来映えである。スイカの好きな者は、それを見るなり、大きそうな物から取っていく。


果物について思うことは、買ってでも食べたい人は、30%。そこに有るから食べる人が40%。そこにあっても食べない人が30%位の割合で居ると言うことである。12等分していても、4人分位は、何時も残っている。


果物の好きな私たちは、残された物を有り難く頂戴するのだが、テリーが残ったスイカを更に薄く切り分けている。私は、「そんなに薄く切ったら美味しくないでしょう」と思うのだが、テリーは「俺の口は小さいから、薄くしないと食べにくいのだ」とか言っている。


そんなに小さな口にも見えないけど、そういう言い分もあるかとは思う。そう言えば、メロンを1個ずつ買ってシェアーして食べた時、私の所に持ってくるのが、極端に薄く、「こんなに薄く切ったメロンなんか、食べた気がしないよ」と言いたくなったことがあった。


彼に任せると、メロンばかりではなく、スイカも薄く切ってしまうことが分かった。人の性分とは、こんな所にも現れるのかしら。


AM9:00パムッカレのキャンプサイトを出発。今日はエーゲ海に面したセルチュク町の海岸(Dereli Camping)でのキャンプである。パムッカレからは、120km程の移動だから、楽なものだ。


AM12:00セルチュク町に到着。ここからは、希望により二手に分かれる。つまり、今日のキャンプ場に直行する人と、ここで降りて、この町の見学をする人に。私はこの町を見学する方を選んで、博物館に行くことにした。


AM12:30、昼食。ハンバーグ、コーラ。20リラ。

PM1:00エフェソス考古学博物館へ。ローマ時代の彫刻、貨幣、土器、装飾品等が、数多く展示されていた。ブレスレット等は、現代の人が身につけている物より、余程輝いて見えた。これらを見学すると、トルコは、ローマ時代は完全にローマ帝国の支配下に入っていたことが分かる。売店で、探していたトルコの地図を買う。10リラ。


PM3:30、若い連中と別れて、路線バスにてキャンプ場へ。4.5リラ。


PM4:00キャンプサイト(Dereli Campingへ到着。エーゲ海の浜辺で、ニンカ、ジョノと懇談。彼ら二人は、このツアーが終了したら、1ヶ月後にはアフリカのツアーに出ると言う。期間は10ヶ月間、全日程の95%がキャンプになるそうだ。キャンプが全く苦にならないばかりか、むしろ楽しめる人でなければ、参加は出来ないだろう。

エーゲ海をバックに(エフェソス)


PM6:00、ポメラタイム。

PM7:00、夕食。サンドイッチ、ポテトチップ、サラダ。

PM8:15、テント内にてポメラ。

PM10:00、就寝。


10月5日(金)エフェソス


AM7:00、起床。昨日も熱いシャワーが出なかったので、汗をかいたまま、シャワーなしで寝てしまった。シャワーを浴びないと、熟睡は出来ないと分かっているのだが。


AM8:00、朝食。マーク夫妻の担当だが、マークが風邪気味だという事で、ジョアンナが一人で準備をしていた。フレンチ・トースト、シリアル、スクランブル・エッグ、バナナ、コーヒー。


AM9:00、グループの9人でエフェソスの見学に出発。バス代4.5リラ。タクシー代の割り勘で20リラ。


AM10:00、まず聖母マリアが晩年に住んだと言われる館の見学。25リラ。此処は、公立の博物館ではないので、共通券が使えず、別料金を支払って見学する。

聖母マリアの館(エフェソス)


信者には神聖なところであるが、他宗教の信者には、見学料は負担に感じる。しかも、伝説上の館であって、聖母が住んでいた証拠は無いという程度の場所である。グループの流れの中で私も参加したが、私にとっては、やはり、どうでも良いところであった。

願い事を結ぶニキータ(エフェソス)


AM10:30、次に本来のエフェソスの見学へ。タクシーの分乗は此処までで終了。エフェソスの最上段でタクシーを降り、見学しながら下段へ降りてくる。上段を見学している間、私は、10年前に此処へ来たのかどうか思い出せないでいた。

エフェソス上段@


オデオン・小劇場(エフェソス)


ところが、下段の見学に差し掛かったとき、記憶に鮮明な「ケルスス図書館」が見えてきた。これは、ローマ帝国時代にあった3大図書館の一つで、ほかの2つ(エジプトのアレクサンドリアとトルコのペルガモン)は既に消滅していると言う。当時の蔵書が12,000であったと言うから、驚かざるを得ない。

ハドリアヌス神殿(エフェソス)

クレテス通り(エフェソス)


ケルスス図書館(エフェソス)


図書館の近くには、ローマ帝国時代の大きな町なら何処にでもある大きな半円形劇場(アンフィシアター)が有り、解説本によると、娼婦の館もあったようだ。そして、一番低いところには、今はその大部分が陸地になっているが、港があった。

大劇場(エフェソス)


アルカディアン通り(エフェソス)

こうして見てくると、エフェソスの町は、人口20万人を擁する堂々たる町であったことが分かる。10年前は、パムッカレの見学同様、町全体の姿までは想像できなかったが、今日の見学で、更に深く認識することが出来た。


トルコの観光は、ローマ帝国時代の遺跡を見学する事になるが、これは、ローマの中心地から程良く離れており、自然の風化や、地震による崩壊はあっても、人工的な破壊がなかった事が幸いしていると思われる。


ローマ帝国時代の中心地であるローマでは、フォロ・ロマーノ、円形コロシアム等、幾つかの遺跡は残っているものの、町の多くは新しい建築物の下に埋まってしまい、見学することは不可能である。


PM1:00、昼食。サンドイッチ、コーラ。普段お世話になっている、スコットの分も頼んで、テイクアウト。50リラ。幸い、サンドイッチが今までで最高と思うくらい美味しかった。中には、サラミ、チーズ、野菜等がふんだんに挟まれており、外側のパンも硬からず、柔らかからずに焼かれていた。


PM2:30、路線バスにて帰路へ。4.5リラ。

PM3:00、キャンプサイトへ帰着。シャワータイム。

エーゲ海岸を望むキャンプサイト(エフェソス)


PM3:30、ポメラタイム。


PM5:30、ポメラ終了。シャワータイム。お湯は、熱くはないが、何とか我慢できる程度の、ぬるま湯であった。

PM6:00、夕食の支度。ジョノが率先してハンバーガーを焼いている。ハンバーガーなら、アダムも好物の一つだから問題なし。


PM7:00、夕食。ハンバーガー。ソーセージ、ピクルズ。

PM8:30、後片づけ。

PM9:30、就寝。


10月6日(土)トロイ


AM5:00、起床。夕べは風の音が強いなと思ったが、テントは揺れていない。よく聞くと、その音は潮騒の音であった。


AM5:30、朝食の支度。

AM6:16、朝食。シリアル、バナナ、スイカ。

AM7:00、出発。


AM9:00、トイレ休憩。ナッツ、7リラ。車窓からは、3m程に延びたススキが揺れている。あとは、オリーブの木が目立つ。左手には、エーゲ海が見え隠れしながら続いている。さざ波が太陽に照らされて、きらきら光っている。


AM11:30、昼食。トウモロコシを実だけにして蒸したもの。これにケチャップとマヨネーズを掛けて食べたら美味しかった。バナナ、リンゴ。9リラ。夕食のデザート用にメロン8リラ。


AM12:30、出発。

PM2:30トロイの遺跡見学。この遺跡は、ホメロスの「イリアス」」の物語に出てくる「トロイ戦争」が根拠になり、シュリーマンによって発掘されたものだが、部外者には、今一つ感動を与えきれないと思う。

トロイの木馬


トロイの遺跡


それは、パムッカレやエフェソスの遺跡のようにはっきりした物が少なく、廃墟のようになっているからだ。遺跡の発掘は、10年前より進んでいるようだが、全体の印象は殆ど変わらない。象徴である木馬だけが印象的である。帰国したら、もう一度おさらいをしたい部分である。


PM4:00、トロイを出発。

PM4:45、アジア側の港・チャナッカレに到着。フェリーでマルマラ海の狭いダーダネルス海峡を、向こう岸(ガリポリ半島)に渡ると、そこはヨーロッパである。対岸への移動時間は、ほんの40分足らずである。要するにこのフェリーは、トラックバスも一緒に乗せてしまう、大きな渡し船である。庶民の足としても利用されているようだ。


ここで、トルコ茶について書いておきたい。トルコ茶の器は、胴体の括れたガラス製で、形も大きさも同じである。日本の茶器は、1つ1つ、色や形が異なり、それを愛でて楽しむ習慣があるが、トルコ茶の器にはそれが無い。


そして、その大きさは、幾分小さめで、お茶のお変わりをすることが当たり前になっている我々には、量的に物足りなさを感じる。お茶自体は、紅茶に似た赤い色をしている。そして味は美味しいが、紅茶よりも濃いかもしれない。よく砂糖を入れて飲む。


PM4:50チャナッカレを出航。

チャナッカレの港(トルコ)


PM5:30、対岸のガリポリ半島エジェアバトEceabat)に接岸。

エジェアバト港(ガリポリ半島)


PM6:00、キャンプサイトに到着。海辺のバーの敷地内だが、海風が非常に強い。私はトラックバスの中で、寝ようと考えている。


PM7:30、夕食。ご飯にミンチ肉の煮込みを掛けたもの。デザートにメロンを切って出したが、期待したほど甘くはなかった。


PM8:00、ポメラタイム。

PM9:00、就寝。


107日(日)ガリポリ半島


AM6:00、起床。昨夜は強風を避けるために、私はトラックバスの中に、寝袋を持ち込んで寝た。そこまでは良かったのだが、私が寝てからバスの中の荷物を取りにくる者が居て、2回も呼び起こされた。


バスの内側のロックを外さねばならないのだが、それが硬くて動かないのだ。どんなに頑張ってもロックが外れないので、最後はハンマーを取り出して、ロックを外すことになった。このトラックバスは、あらゆる所が壊れているが、非常事態の時にはどうするのだろうか?


AM7:00、朝食。クレープ、シリアル。

AM7:30、このツアー最後の大掃除。トラックバスに乗っている物を全部出して洗い直し、バスの中を掃除する。やらないよりは増しだし、普段気が付かないことに気づくこともあるだろう。


AM10:00、今日は、ガリポリ半島の観光を行う。ガリポリ半島とは、聞いたこともない名前だが、知ってみるとなかなか由緒有る、しかも大事な地勢学上の位置を占めている。

AM10:30、記念館で、第1次世界大戦時のオスマントルコと連合軍のアンザック(ANZACAustralian and New Zealand Army Corps オーストラリア・ニュージーランドの連合軍)との戦いの状況を映像と解説で鑑賞した。


要するに、オスマントルコの首都、イスタンブルを攻略するには、そこへ進軍する時に必ず通過する、ダーダネルス海峡の制海権を奪取せねばならない。そのためには、ガリポリ半島を制圧しなければならない。どちらの軍も国を背負って勇敢に戦ったという映像であった。


これを観て思い出したのが、日露戦争に置ける、旅順港の攻防である。どちらが旅順港を獲得するかで、勝敗が決する。旅順港を押さえるには、それを見下ろす位置にある、203高地の制圧が決定的となる。


と言うことで、戦場は極めて限定的であるが、203高地は決定的に重要な場所であった。日本軍は数万人の犠牲者を出しながらも、最終的に203高地を制圧し、旅順港の制海権を得、日露戦争を勝利に導いた。


同様の攻防がダーダネルス海峡と、ガリポリ半島で行われていたわけだ。第1次世界大戦で、最後はオスマントルコが敗れて解体されたのだから、ガリポリの戦いでも負けたのだろうが、そこまでは映像化されていなかった。


AM11:30、この小さなガリポリ半島にはアンザックの墓が幾つもある。アンザックが上陸した地で、倒れた兵士の墓である。3カ所を見学したが、いずれも美しい海岸に綺麗に整備された墓地である。

アンザックの墓@(ガリポリ半島)

アンザックの墓A(ガリポリ半島)


第1次大戦終了後100年以上経つが、何度も再建されているのである。同じ戦死兵の墓でも、旧ソ連に置ける、忘れ去られたような日本人墓地とは、大分異なる。


これは、軍人に対する国民の感情と相関関係にあると思う。今でも「軍人を誇りにし、尊敬しているか、或いは、何か後ろめたさを感じ、誇りにも、尊敬もしていないか」と言う差である。


PM1:40、最後のアンザックの墓地に来たとき、ほかのグループを案内してきたガイドが、私が日本人だと分かると、急に笑顔になって「私の合気道の師匠は日本人です。日本には何度も行っていますが、本当に良い国です。合気道は2段で、道場で教えています」と話してくれた。

アンザックの墓B(ガリポリ半島)

PM2:00、昼食。キャンプサイトに戻って、自由昼食。私たちは手頃な食堂を探して歩いたがなかなか見つからない。そんな中で、魚のサンドイッチを食べさせてくれる店があった。


中身は多分鰯のフライだと思うが、私にとっては肉類のサンドイッチより美味しく感じられた。コーラも含めて11リラと言っていたが、スコットが「エフェソスでの、サンドイッチのお返しです」と言って支払ってくれた。


PM3:30、ポメラタイム。

PM6:30、ツアー最終の会食ディナーが、キャンプサイト最寄りのレストランで開催された。とは言っても、いつもの通り、各自が好きな物を頼んで、自分で払って食べるだけのこと。私は、珍しく魚がメニューにあったから、それを注文した。


どんな魚がどのように料理されて出てくるのか楽しみにしていたが、見事に裏切られた。大小のアジらしき物が、立派な皿に載せられて出てきたが、余り新しくなく、茹でたような料理で、味は全く付けられていなかった。


醤油を所望すると、「それは無い、ケチャップで良いか」と言う。私は日本から持参したキッコーマン醤油1回分を掛けて、何とか口に入れたが、とても美味しいとは言えなかった。「料理の仕方も、食べ方も知らないで、メニューに載せるなよ」と言いたかった。


会食の支払いがスムーズに終わったことはないが、今回も各自が支払った金額が合計金額に満たないようだ。大体、請求金額が正しいかどうかも怪しいのだが、税金だ、サービス料だと追加されているから、各人の支払いが最終的に幾らになるのか、ハッキリしなくなってくるのである。


確認が面倒になると、何時もニンカが不足分を支払っている。ちなみに、私の魚料理の代金をマスターに確認すると、5リラであった。5リラでは、不味くても仕方がないか!?


PM9:00、就寝。今夜もトラックバスが私の寝床だ。私が寝た後に何人もが出入りするので、鍵を閉められない。最終的に鍵を閉めたのは、10時半であった。


10月8日(月)ガリポリ半島〜イスタンブル


AM5:30、浜辺に止まっているトラックバスの中で起床。

AM6:15、朝食。冷たいサンドイッチとゆで卵、コーヒー。

AM7:00、いよいよツアー最終日。イスタンブルに着いたら皆とお別れだ。バスの中は心なしか、静かである。


AM9:00、トイレ休憩。トイレの入り口で、爺さんが使用料、1リラを徴収している。入るときに気が付かなかった私は、出るときに爺さんに呼び止められて、1リラを支払う準備をしていた。そこへ、フーゴが用を足し終わって出てきた。


彼も爺さんに「1リラだよ」と呼び止められた。その時の彼の反応が「俺は払ったぞ!よく見ていろ!」との捨てぜりふだ。「そんな言い方をしなくても良いではないか。何処までも、心の冷たい男なんだな」と思わずにはおれなかった。売店でピーナツを購入、3.5リラ。


AM11:30、トラックバスは、ガリポリ半島を北上している。右側の車窓からは、美しいマルマラ海が見え隠れしている。イスタンブルはもうすぐだ。


PM2:00イスタンブル市内に入ると、車道は渋滞しており、車はスムーズに走れない。午後1時には目的地に到着するかと思っていたが、午後2時になってしまった。此処は、50台ほどの大型バスが止まっている駐車場だ。此処で解散である。


皆がメールアドレスを交換し、ハグし合い、ジョノとニンカにチップを渡し、タクシーでそれぞれの宿泊所に散っていった。私は、ジョノ、ニンカ、テリーの宿泊所と近いと言うことで、タクシーに相乗りして行くことにした。


ところが、空車のタクシーが現れず、やっと1台が止まってくれたが、行き先を告げると、近過ぎると言って断られてしまった。確かに宿までは、5600mしかないのだが、荷物が多いためにタクシーを使いたいのだ。


結局我々は、その距離を歩いて行くことになった。幸い同行の3人が私の荷物を少しずつ担いでくれたので、私はこの難を乗り切ることができた。


PM3:00オリエンタル・ホステルにチェックイン。予約してあったので、手続きは簡単であった。部屋の鍵を渡され、「1階の部屋です」と言われ、荷物の多い私は「ラッキー」と思ったのだが、こちらの1階は、日本式に言うと2階であった。6人部屋で、既に何人かは入室済みだが、部屋には誰も居なかった。3泊、朝食付きで45ユーロ。


PM3:30、両替所へ。180ユーロX 6.75=1215リラ。


PM3:45、両替を終えて、ホステルに戻ってくる途中で、ジョノ、ニンカ、テリーの3人が食事中であるのに出くわした。私もそこに合流して、遅い昼食をとることにした。空腹であったこともあり、メニューを見て、美味しそうに見えたステーキを注文。久しぶりの豪華版だ。


ところが、期待はずれも良いところ、柔らかいヒレステーキが出てくると期待していたら、ナイフを入れてもなかなか切れない肉だ。しかも口に含んでみるとパサパサで肉の味がしない。どうやったらこんなまずいステーキが作れるのかと聞きたいくらいだ。


同席のジョノに味見をしてもらったら、「ひどいね!これはランプ肉で、しかも焼き過ぎだ」と言う。ウェイターに苦情を言うと、ナイフが切れないのかと思ったらしく、切れるナイフを持ってきた。


そんな問題ではないのだ。「肉の味がしない」と言うと、別の小皿に入っているソースを付けろと言う。念のため、そのソースを付けて食べてみたが、味に何の変化もなかった。西洋人なら美味しく感じるソースなのかと思い、これもジョノに味見をしてもらったが、ジョノも首を横に振って、「これは肉に付けるソースではないだろう」と言う。


私の怒りは段々高まってきた。「こんな料理に定価通りの支払いはできないから、ディスカウントしなさい」とウェイターに言うと、「分かりました」と言う。48リラの定価を38リラで請求してきたので、「半額にしなさい」と言うと、28リラまで下げてきた。


私も妥協し、コーラ代と併せて35リラ払って、終わりにした。昨夜の魚と言い、今回の肉と言い、初めて入る店で、美味しい料理にありつくことは、非常に難しい。必然的に、無難なファストフードや、サンドイッチ、或いはバナナで済ませることが多くなるのである。


帰路、通りの観光案内所に寄り、明日の観光の予約をした。ボスボラス海峡のクルーズをメインにした観光で、35ユーロ。


PM4:30、こちらのホステルに来ても、ネット環境が好転せず。ラインの送受信は出来るのだが、メールの送信が出来ない為、旅行日記を家族に送れない状況が続いている。


PM6:00、久しぶりに気持ちの良いシャワーを浴びる。生き返ったようである。その後、ポメラタイム。


PM8:00、相部屋の1人は、オーストラリア在住のイタリア人青年。ピザ職人である。話を聞くと「ピザも寿司と同じでピンからキリまで有ります。経験による所が大きいですが、一般的に美味しいピザは、周りがふんわりとバブルで膨れている物です。膨れていても、堅く締まっている物は美味しくありませんし、胃にも負担がかかります」と話してくれた。


PM9:00、就寝。


10月9日(火)イスタンブル


AM6:00、起床。シャワーを浴びて寝たので、気持ちよく眠れた。ポメラタイム。


AM8:00、朝食。食パン、ゆで卵、シリアル、コーヒー。熱いコーヒーが美味しかった。ポメラタイム。


AM10:30、本日の観光へ。天気が曇り空で、観光には今一のコンデションである。「バスとボートのツアー」に参加。


AM11:30ボスポラス海峡のヨーロッパ側にある「ゴールデン・ホーン」と言う、牛の角の形をした入り江から乗船。ボスポラス海峡に出て、約2時間のクルーズを楽しんだ。狭い海峡だから、橋が何本も掛かっており、そう言う意味では、隅田川を広くしたようなクルーズに似ている。

クルーズ船(ボスポラス海峡)

              
                       

クルーズ船上のガイド(ボスポラス海峡)


ルメリ要塞(ボスポラス海峡)

乙女の塔(ボスポラス海峡)


ユスキュダルの町(ボスボラス海峡)

ブルーモスク(ボスポラス海峡)


ボスボラス大橋(ボスポラス海峡)


2時間の間、モスク、モスク、モスク、と説明され、パレス、パレス、パレス、と説明された。イスタンブルの人口は1500万人で、東京都(1380万人)より多い。そして、歴史は、東京が江戸時代から始まったと考えると、まだ400年ほどの歴史しか有していない。


それに対して、イスタンブルの歴史は、西暦紀元後だけでも2000年。その間、権力者はいろいろに変わったが、(ローマ帝国、ビザンツ帝国、オスマン帝国)常に中心地で有り続けてきた。宗教を例にとっても、キリスト教以前、キリスト教、イスラム教と何度も変わっている。


地理的にはアジアとヨーロッパの合流地点でもある。従って様々な文明が、このイスタンブルで興亡を繰り返してきた。その結果が今日のイスタンブルに続いていることを考えれば、イスタンブルが混沌とした町であることは、用意に理解できる。


ニューヨークは、人種の坩堝だと言われるが、歴史は新しく、まだ200年余りである。歴史的な意味でも混沌とした巨大な町を、ほんの23日で、どの様に俯瞰したらよいのだろうか。そう言う観点から、本日のツアーは誠によく考えられたツアーであった。


ボスボラス海峡の名前は知っていても、そこの入り江になっているゴールデン・ホーンは初めて聞く名前である。余りにも小さく、狭いところなので、ふつうの地図には載ってさえいない。これらが実は、黒海とマルマラ海の間に横たわっているのである。


PM1:50、通常なら、ケーブルカーに乗って上がっていく所を、今日のツアーでは、バスに乗って上がり、その高台(ピエールロティの丘:Pierre Loti Hill)から金角湾Golden horn)を俯瞰し、ケーブルカーで降りてきた。高台では1時間の昼食時間が設けられ、各自が自由昼食となった。私は、ハンバーグとトルコのチャイ(茶)を注文した。22リラ。

金角湾(イスタンブル)


トルコのチャイ(イスタンブル)


PM4:00、ツアーの最後は、バスに乗って、旧市街の塀を巡る観光であった。旧市街の塀は、色々な国で見てきたが、こんなにも広い旧市街の塀は見たことがなかった。この塀は何時頃に造られたものであろうか。(西暦413年にテオドシウスの城壁が完成している)。勿論全てが残っているわけではないが、あらあら残されており、今でもその塀を利用している部分もあった。

テオドシウスの城壁(イスタンブル)


今日のツアーでは、この混沌とした巨大な町を、有る程度離れたところから、ゆっくりと俯瞰できて良かった。ツアー解散後、アヤソフィアとブルーモスクに立ち寄ったが、ブルーモスクでは丁度、祈祷中であると言う理由で、中には入れなかった。この2つはイスタンブルを代表する建造物として、しばしば話題になる。すなわち:


1、アヤソフィア博物館は、537年にビザンツ様式として完成し、ビザンツ帝国の終焉までギリシア正教の大本山として君臨。1453年にコンスタンティノープルが陥落すると、モスクに変えられた。1932年、初代大統領アタチュルクはここを博物館として一般公開する事を決定した。


2、ブルーモスクの正式名称は、スルタンアフメト・モスクと言い、6本のミナレット(尖塔)を持っている。1616年の建造。


PM5:00、帰路へ。コーラ、3リラ。ポメラタイム。

PM8:30、シャワータイム。

PM9:30、就寝。


1010日(水)イスタンブル


AM7:00、起床。

AM8:00、朝食。内容は昨日と全く同じ。暖かい部屋で温かいコーヒーが飲めるだけましだ。


AM9:30、外出。まず、昨日入れなかった、アヤソフィアを見学。トルコ全域で2週間通用するという、前払いカードを入り口の機械に通すと、既にアヤソフィアには使われたという表示が出た。

アヤソフィア博物館(イスタンブル)


係員が、不審に思って、「あなたはこのカードを何処で買いましたか?」と言う。私は「カッパドキアで買いました」と答えた。係員が「あなたは、こちらに来たことになっていますが」と言うので、「確かに昨日来ましたが、祈祷中で中には入れませんでした」と言うと、「祈祷中で中に入れなかったのは、ブルーモスクの方で、こちらではありませんよ」と言う。


私は「2つのモスクを混同していたのだ」と、この時気が付いた。同じ敷地にあり、同じようなモスクであるため、どうも両者の区別がはっきりしない。私のうろ覚えが原因で引き起こした混乱であった。


私は気を取り直して、ブルーモスクへ向かった。行ってみると、こちらへは確かに来ていなかった。こちらのモスクは、下足を脱いでプラスチック袋に入れて入場するのだ。

ブルーモスク(イスタンブル)


ブルーモスク内部(イスタンブル)


私は、「何故、ブルーモスク、と言う名前が付いているのですか?」と、警備の人に聞いた。彼は「あそこを見てごらん、タイルが青い色をしているでしょう?」と言って、内部の高い部分の壁を指さした。


確かに青いと言われれば青い。「しかし、この程度の青さだったら、なにも此処だけではなく、色々なところにあるだろうに」と私は思ったのであった。見学中に、分かれたばかりのフーゴに会った。


AM10:30グランド・バザールへ向かう。此処は、10年前、私が迷子になったところである。ベルトを買うまでは良かったが、出口が分からなくなり、近くの人に聞いても、英語が通じなかったのだ。


暫く経ってから英語の分かる人が来てくれて、窮地を脱した思い出がある。今回の訪問は、その時のリベンジでもある。巨大なマーケットの中に、同じような物を、同じような値段で売っているので、どの店で買ったらよいか、決め手がない。


明日は帰国だが荷物は増やしたくない。と言うことで、結局10年前と同じようにベルトを購入しただけで、バザールを引き上げた。今回は特に道に迷うことはなかった。


AM11:30、できれば、地下鉄に乗って、ボスポラス海峡の下を通ってみたい。10年前に来たときは、日本の企業が、トンネルの掘削作業に着工したばかりであった。それがどの様に完成したのかに関心があったのである。


ボスボラス海峡方面に行く電車に乗った事は良かったが、その電車は、ボスボラス海峡に掛かるガラタ橋の上を走っていた。


AM12:30、「私はトンネルを通過したいのですが」と言って、地下鉄の乗り方を教えてもらった。すると、地下鉄はマルマライと言う別の路線があって、乗り換えねばならなかった。新たに切符を買い、今度こそボスポラス海峡の下を通ることに成功した。地下鉄のアジア側で「ウスクダラ駅」を発見。昔、江利チエミが歌うトルコ民謡の「ウスクダラ」と言う歌が流行していた事を思い出した。


地下鉄は始発駅から終着駅まで、ほんの5つしかない短い路線であったが、乗客数は、日中にも係わらず、座れない人も居るほどであった。陸橋の上を走るトラムと、海峡の下を走るメトロの両方を楽しんだ1日であった。5リラの1回券を3回購入。

地下鉄(イスタンブル)


PM1:30、昼食。サンドイッチ、コーラ。14リラ。イスタンブルの地図、15リラ。


PM2:00トプカプ宮殿Topkapi Sarayi)の見学。こちらも10年ぶりの見学である。トプカプ宮殿は、オスマン朝の居城として400年(15世紀の半ばから20世紀初頭にかけて)もの間、政治や文化の中心であった。その秘宝は膨大で、個人では1品も所持できない貴重な物が、これでもか!と言うほど陳列されている。10年前には、伊万里焼き等の日本製の陶器が、沢山並んでいたように思ったが、今回は、中国製が多かった。

帝王の門(トプカプ宮殿)


伊万里焼(トプカプ宮殿)


中庭(トプカプ宮殿)


(トプカプ宮殿)

謁見の間(トプカプ宮殿)

(トプカプ宮殿)

送迎門(トプカプ宮殿)


PM4:00,ホステルに帰着。明日の空港行きの車を予約する。パッキング。シャワータイム。

PM6:00、夕食。バナナ、ヨーグルト。10リラ。

PM7:00、ポメラ。

PM9:00、就寝。


1011日(木)イスタンブル

AM7:00、起床。

AM8:00、朝食。特別な物は置いてないが食が進む。トマトやキュウリは切って置いてあるだけだが、美味しく感じる。素材が新鮮なのだろう。


AM10:00、規定通り、10時にチェックアウト。と言っても部屋の鍵を返すだけ。後は、パッケージした荷物を荷物室に置いて時間をつぶす。フラッと外に出たら、マークに声をかけられた。洗濯物を取りに行くところだと言う。彼ら夫婦は、これからイランに行くと言っていた。


AM11:00、いったんホステルに戻ったが、まだ時間があるので、もう一度外出。今度は旧市街を取り巻く、古い壁に注目しながら歩いた。壁伝いに坂を下りると、そこはボスポラス海峡であり、坂を上ると、アヤソフィア博物館の前に出てきた。

ボスボラス海峡(イスタンブル)


テオドシウスの城壁(イスタンブル)

アヤソフィア(イスタンブル)


もう帰国する日になって、私が泊まっていたホステルから、アヤソフィアまでは、ほんの数分しか掛からない事が分かった。いつもの事だが、初めての町で地理感覚を掴むには、数日を要する。


従って、町の概要が分かった頃には、そこを離れることになるのである。若い人は、スマホのGPS機能を駆使して、初めての町に到着した瞬間から、元気に動き回っている。旅行者にとって、GPS機能が使えるか否かは、大きな違いである。


さて、アヤソフィアの前に来て、佇んでいると、日本語で話し掛けられた。その男性は、日本語の観光ガイドで、日本には何度も渡航している。彼に「ブルーモスクの尖塔は6本有るはずなのに5本しか見えないが」と言うと「1本は修理中です。モスクの中も修理中だったでしょ?」と言う。


彼にブルーモスクの名前の由来を聞くと「本来の名前は、スルタンアフメト・モスクと言うのだが、観光者に分かりやすいように、ブルーモスクの愛称が付けられた。このモスクには2万枚ほどの青いタイルが使われており、ほかのモスクの数とは決定的に異なります」と言う説明であった。


今日は観光ガイドの仕事がないので、こうやって日本人に話し掛けていると言う。結局彼の最終目的は、日本人客を特定の店に連れていくことであった。私も話巧みにそのように持って行かれたが、時間がなかったので断った。


AM12:40、ホステルに戻り、シャトルバスに乗ってアタチュルク国際空港へ。

PM1:20、空港に到着。

PM2:00、昼食。チーズサンド、コーヒー。20リラ。暖められたチーズサンドが美味しかった。ポメラ。


PM3:30、チェックイン。どこの空港も、離陸の2時間前にならないと、カウンターは開かないらしい。キャンプ用のテントセットを持ち込んだので、エクストラ料金を請求された。覚悟はしていたが、140ドルは高いね!壊れ掛かっているテントなので、置いてきても良いのだが、愛着もあるし。


PM4:00、おみやげの追加を購入。トルコランプ、90リラ。トルコ茶器、90リラ。トルコのお菓子、300リラ。


PM5:35、離陸。


1012日(金)仁川空港


AM4:00、(現地時間、AM10:00仁川空港に着陸。乗り継ぎ時間が、6時間ほど有るので、待合い所で一休み。1時間ほど横になる。今まで送信できずに溜まっていた日記を送ってみたら、スムーズに送れた。


PM2:00、昼食。パン、コーヒー。9ドル。

PM4:00、離陸。最初の機内食が、ビビンパ。久しぶりのご飯が美味しかった!

PM6:15、成田空港に着陸。

PM7:15、迎えの妻と合流。

PM8:00、帰宅!!

体重、5Kg減少!!小さなお尻が更に小さくなっていた。

シルクロードの旅、終了!

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